保健室
 寒気がする。なんだか関節も痛む。もしかして夏風邪をひいてしまったのかもしれない。
僕は学校で具合が悪くなり、担任の先生に断わってから保健室へ行った。
真っ白な廊下を歩くと、軽いめまいがした。廊下に張り出されている交通安全のポスターが二重に見える。
廊下の窓から入り込む太陽の日差しはとても温かいはずなのに、寒くてたまらない。 外の気温は高く、空は晴れている。なのにどうしても体が震えてしまう。

 やっとの思いで保健室へ辿り着き、灰色のドアをガラッと開けると、机に向かって書類書きをしている保健の先生と目が合った。 先生の眩しい白衣に目に眩んで、僕は再びめまいがした。
保健の先生は、男子生徒たちの間で人気があった。目が大きくて、スタイルが良くて、茶色い髪の毛がフワフワ風になびいて、要するに先生は飛びっきりの美人だった。
「どうしたの? 顔色が良くないわね」
先生は書類書きをやめて椅子から立ち上がり、カンカンカンとサンダルの音を鳴らして僕に近づいた。そして、僕の汗ばんだおでこにそっと右手を当てた。
「熱がありそうね」
先生はそう言って白い棚の中から体温計を取り出し、それを僕に手渡した。
そして机の奥の真っ白なカーテンを開け、太陽が降り注ぐ真っ白なベッドへ腰かけるようにと僕に言った。

 僕は言われるままにベッドの上へ腰かけ、ワイシャツのボタンを2つ外して脇の下へ体温計をはさんだ。 そして3分後にそれを取り出すと、体温計の針は僕の体温が38.5度である事を教えてくれた。
先生は僕の隣に座ってそれを確認し、それから優しい声で僕にこう言った。
「やっぱり熱があるわね。少しベッドで休んで、落ち着いたらお家へ帰りなさい。あなたは1年生?」
先生の問いかけに僕は軽く首を振って2年生です、と答えた。
「何組? 担任の先生にあなたが早退する事を伝えておくわ」
「2年2組。田島洋平です」
「分かったわ。ほら、少し横になって眠りなさい」
僕らの短い会話はすぐに終わりを告げ、先生はベッドを覆い隠す白いカーテンを引いてから保健室を出て行った。
僕は熱がある事をはっきり確認してからますます体が寒くなったような気がしていた。
僕は窓から明るい太陽が差し込む真っ白なベッドへ横になり、消毒液の匂いがする枕に頬を埋めた。
そこはとても静かだった。目を閉じると、僕の意識はすぐに遠くなっていった。

*   *   *

 僕はその後しばらくたってから、体にひどい寒気を感じて目が覚めた。
すると一瞬、自分のいる場所がどこだか分からなかった。でもしばらく考えると自分が保健室のベッドで横になっていた事を思い出した。
僕の風邪は重症だと思われた。ベッドの上には窓の外から温かい日差しが差し込んでいたし、フワフワな布団をかぶっていたのに体の震えが止まらなかったからだ。
だけど自分が震えている原因は、それからすぐに分かった。
その事に気付いた時は目の前が真っ暗になり、どうしていいのか分からなくなってしまった。
もう見なくたって分かる。その時僕の制服のズボンはびっしょり湿っていた。いつもはこんな事ないのに、僕はよりによって学校の保健室でオネショをしてしまったんだ。
この現実から逃れたい。夢であってほしい。
僕はそう祈りつつ、ベッドの上にそっと上半身を起こして掛けぶとんをめくってみた。
そして僕は泣きたくなった。僕のズボンは隠しようのないほど濡れていて、白いシーツの上には大きな地図が描かれていた。
「目が覚めた?」
その時、突然ベッドの横の白いカーテンが開いて僕と同じ制服を着た見知らぬ男子生徒がやってきた。
僕は慌てて濡れたシーツの上に掛けぶとんを掛けたけど、彼にはしっかりそこに描かれた大きな地図を見られてしまった。
彼はベッドの脇に立って今にも泣き出しそうな僕を大きな目で見つめていた。
彼は背が高くて、体つきががっちりしていて、髪が茶色く、大人っぽい人だった。でも僕はそれまで校内で彼を見かけた事はなかった。
僕は彼から目を逸らし、ふとんの端を握り締めて必死に涙を堪えていた。中学2年にもなってオネショしてしまうなんて、すごく恥ずかしかったし、ショックだった。
でも彼は僕を笑ったりなんかしなかった。彼はベッドの上に腰かけて茶色い髪をかき上げ、軽く微笑みながら僕の手をそっと握ってくれた。
「気にするなよ。ちょっと待ってて」
そう言って彼は一瞬僕の目の前から消えた。僕はとうとう目から零れ落ちた涙をさっと手で拭った。
彼が戻ってくる前に、消えてなくなってしまいたい。僕はそう思い、また零れ落ちそうになる涙をぐっと堪えていた。

 「これ、君の鞄だろう? 保健の先生が持ってきてくれたみたいだよ」
彼はすぐに僕のところへ戻ってきて再びベッドの上に腰かけ、スポーツバッグとジャージが入った巾着袋を渡してくれた。紺色の鞄と灰色の巾着袋は、たしかに僕の物だった。
「早くジャージに着替えて帰ろう。はい、これ」
そう言って彼が手渡してくれたのは、なんと紙オムツだった。 彼がどうしてそんな物を持っているのかよく分からなかったけど、いくらなんでも紙オムツを着用する事にはすごく抵抗があった。
僕はこんな物いりません、と言って彼に紙オムツをつき返そうとした。でも彼はそれを受け取ろうとはせず、ガバッと僕の膝から掛けぶとんを剥ぎ取り、抱きかかえるようにして僕を床の上に立たせた。
「恥ずかしがってる場合じゃないよ。先生が戻って来る前に行かなきゃ」
僕が呆気に取られていると、彼はその間に僕の濡れたズボンとパンツをさっさと脱がせ、僕はあっという間に紙オムツを着けられてしまった。そのあまりの手際の良さに、僕は少々驚いていた。
僕は、ただ床の上に立っていただけだった。
僕の着替えは全部彼がやってくれた。僕は黒いジャージのズボンを履かされ、Tシャツを着せられ、そして彼は最後にシーツの上に描かれた地図を掛けぶとんで覆い隠した。

 「さぁ、行こう。誰にも見つからないうちに」
僕は何も言えないまま彼に手を引かれ、誰もいない廊下を彼と一緒に駆け抜けた。
そして校舎を飛び出し、校門を飛び出し、学校からだいぶ離れて住宅街へ辿り着いた時、彼はやっと僕の手を離して息を整えた。
「ここまで来れば大丈夫だよ」
彼も僕も、暑い日差しの下を走り続けてかなり息が上がっていた。
僕はその時になってやっと彼が誰なのかを聞き出す事ができた。
「何年生?」
額の汗を拭いて僕を見つめる彼にそう問いかけると、彼は3年生だよ、と小さな声で言った。
そして僕が見かけた事がないね、と言うと転校してきたばかりなんだ、と彼は言った。
「俺も、前の学校でおもらしした事あるんだ」
彼の突然の告白に、僕はかなり驚いた。彼はすごく大人っぽくて、彼とおもらしがまったく結びつかなかったからだ。
「知ってる? そういう子、結構いるんだよ。だから学校の保健室には必ず紙オムツがおいてあるんだ」
「……そうなの?」
「うん」
彼の茶色い髪が太陽に透けて、とても綺麗に見えた。
その大きな目はとても優しくて、その目に見つめられると僕は頬が熱くなってしまった。
「俺、転校してきたばかりで親しい友達もいないしさ、授業もつまらないから、仮病を使って保健室でさぼってたんだ」
彼はそう言って、道端に落ちている小石を蹴った。僕は彼の大きな目を見つめ、自分でも気付かないうちにこんな事を口走っていた。
「どうせさぼったんだから、どこか遊びに行く?」
彼は太陽の下で微笑み、大きくうなずいた。
僕はその時彼の事が好きになってしまったけど、それを彼に告白するまでには、長い長い時間がかかりそうだと思っていた。
END

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