かわいい嘘
学校帰り。俺は家路を急いでいた。駅の改札口を出て大型スーパーの中を走りぬけ、外へ飛び出すと目の前に横断歩道がある。
この街へ引っ越してきて約2週間。最近になってやっと家へ帰る最短距離が俺の頭に叩き込まれた。
その時、運悪く目の前の信号は赤だった。俺はしかたなく横断歩道の前に立って腕時計を確認し、イライラしながら信号が青に変わるのを待っていた。
俺の目の前を、車がビュンビュン走り抜けて行く。そして、その向こうに見えるのが本屋だ。
その本屋の横の道を真っ直ぐに300メートルダッシュすれば、俺の住むマンションへと辿り着く。 そしてマンションの前には、待ちくたびれた彼の姿があるはずだ。
彼との約束は夕方4時。なのに、もう今は4時30分。
空を見上げると、ギラギラ輝く夏の太陽と目が合った。
今日はすごく暑い。俺はずっと走り続けたせいで全身汗まみれだった。さっきからワイシャツが肌に貼り付いてすごく気持ちが悪い。
俺はこんな暑い日に、彼を外で30分も待たせてしまっていた。
もうすぐ信号が青に変わる。そう思った時、突然後ろから肩をポンポンと2度叩かれた。
そして誰だろうと思って振り向いた途端に、俺はドキッとした。
「こんにちは、拓也くん」
そう言って俺に微笑みかけたのは、俺が待ちぼうけを食らわせている彼の母親だった。
彼は、母親によく似ていた。
一重の目と、小さな口と、白い肌。彼のそれは、すべて母親から受け継いだもののようだった。 もちろん、彼は母親と違って花柄のワンピースを着たりはしないけれど。
「いつも誠と仲良くしてくれてありがとう」
俺は彼と同じ顔をして微笑む彼女にドキドキしていた。
彼女は、かわいい息子が俺と寝ている事を知ってもやっぱり同じ事を言うだろうか。
「あの子は1人っ子だから、拓也くんの事をお兄さんのように慕ってるのよ」
彼と同じ顔をした彼女が、長い髪を風になびかせながら俺にそう言った。
きっと彼女は、自分の言葉がどれほど俺を驚かせたか知りもしないのだろう。
やがて信号の色が青に変わり、俺は横断歩道の上を駆け抜けた。
本屋の横の道には、建売住宅が遠くまでズラリと並んでいる。
俺は歩道の上をひたすら走り、その辺りでは飛びぬけて背の高いマンションの前へやっとやっと辿り着いた。
マンションの入口付近には白い花がたくさん植えられていた。その花を背にして立っている誠は、いかにも不機嫌そうな顔をして 俺を睨み付けていた。
でも、唇を尖らせる彼はとてもかわいかった。彼には大きすぎるTシャツが風に膨らんでいるのも、俺好みだった。
「遅いよぉ」
明らかに怒っているその声は女の子みたいに高くて、なんだかすごく笑えた。
「何笑ってるんだよ!」
俺が堪えきれずに笑うと、彼は頬を真っ赤にして本気で怒り出した。でも俺は、彼の機嫌を直す方法ならいくらでも知っていた。
引っ越して来たばかりの俺の家は、マンションの15階だった。
彼は俺の部屋へ入るなりすぐにベッドへ飛び乗り、その横の窓を開けて外の風を浴びた。
ベッドの上に膝を立てて窓の外を見つめる彼は、まるで電車の窓から外を眺めている子供のようだった。
「風が気持ちいい」
誠はそこから街の景色を見つめるとすぐに機嫌が良くなる。
俺もすぐに彼の隣へ行って誠と同じ風を浴びた。たしかに、窓の外の景色は最高だった。
建売住宅が規則正しく碁盤の目に並び、道の上の人や車はとっても小さく見える。 そして空は青く、遠くの山は緑がいっぱいだ。
建売住宅の列の向こうには、茶色い塀で囲まれた青い屋根の家がある。
1週間前に初めて彼をこの部屋へ連れて来た時、俺たちはこうして今と同じように2人で窓の外の景色を眺めた。 その時誠は、その青い屋根の家を指さしてこう叫んだ。
「俺の家が見える!」
彼の家は、その辺りでは1番大きな家だった。塀の内側には青い三角屋根の家屋があり、その周りには綺麗に芝生が敷かれている。
そしてその家の裏側には物干し竿があって、俺はそこに時々地図の描かれた布団が干されている事を知っていた。 だからその時、俺は彼にこう尋ねたんだ。
「誠には、弟か妹がいる?」
すると彼はすごく不思議そうな目をして隣にいる俺を見つめた。
「どうしてそんな事聞くの?」
「お前の家、よくオネショした布団が干してあるからさ」
「そんなの、ここから見えるの?」
「うん。俺は目がいいから」
その時彼は涼しい顔をして外の景色を見つめ、たしかにこう言ったんだ。
「きっと弟がやったんだ。あいつはまだ小さいから」
俺はその時、何も考えずに彼の言葉を信じた。だから今日誠の母親の話を聞いた時、すごく驚いてしまったんだ。
俺は、強い風を浴びておでこが全開になっている誠の横顔を見つめた。
するとどうしても顔がニヤけてしまう。
2つ年下の誠は中学2年生。彼は小柄で、今でもよく小学生に間違えられるという。
そんな彼のかわいい嘘は、とても微笑ましいものだった。
「好きだよ、誠」
そう言って彼をぎゅっと抱きしめると、誠がフフッと笑って俺を見上げた。
その広いおでこにキスをすると、彼の頬が桃色に変化した。
彼とはこれ以上の事を何度もしたのに、たったこれだけで頬を染める誠がとても愛しい。
俺はその時、母親にそっくりな誠の目を見つめながら、ふとこんな事を考えていた。
「弟の名前はなんていうの?」
俺が今そう聞いたら、彼はいったいなんて答えるだろう。
END