好きだから、言えない 5
その後1週間、勇気から連絡はなかった。でも、それは当然だと思っていた。彼の部屋へ押しかけてあんな大失敗をしてしまったんだから、彼が離れていくのはしかたがない。
だけど、俺の頭の中にはたくさんの後悔が渦巻いていた。
こんなふうになる前に、ちゃんと彼に事情を話せばよかったのかもしれない。
俺は19歳になった今でも、まだオネショが治りきっていない。今でも週に2〜3回は必ず漏らしてしまう。
その事がネックになって、今まで恋愛が長続きした事はなかった。
付き合いが長くなってくると、相手は必ず家へ泊まりに来いとか旅行へ行こうと言って俺を誘った。 でも俺はそのたびになんだかんだと理由をつけて断わり続け、そのうち相手とギクシャクしていつも恋は終わりを告げた。
俺は、勇気との夜に賭けたんだ。オネショはいつも週2〜3回。後の3〜4日はほっとして朝を迎える。 勇気の部屋で失敗する確率は半々だったけど、結局俺は賭けに負けたんだ。
でも、今更こんな事を考えてももう二度と過去には戻れない。
どっちにしろ俺には彼に秘密を告白する勇気なんかなかった。
今までそうする事を考えなかったわけじゃないけど、それを話して勇気に笑われたり嫌われたりする事が死ぬほど怖かったんだ。
「お先に失礼します」
「お疲れ様」
厨房の皆に挨拶をして、裏口から店を出る。
今日は店が忙しくて、午後10時で上がるはずが結局1時間も残業するハメになってしまった。
もう夜の11時だというのに、外へ出るとすごく暑かった。
空は灰色の雲で覆われている。そして空気は湿っている。きっとそのうち、雨が降り出すだろう。
俺は裏口を出て右の細い通路を歩き、従業員専用の駐車場へ向かった。
丸いライトが俺の車を照らし、その淡い黄色の光を見上げると、そこには蛾がいっぱい集まってきていた。
気持ち悪い。早く帰ろう。
そう思って車のドアに手を掛けた時だった。俺は、突然背中から誰かに抱きつかれた。
背骨に密着する人肌の感触。懐かしい汗の匂い。首筋をくすぐるツンツン尖った髪の感触。
「貴ちゃん、久しぶり!」
背中でその声を聞いた時、また心臓の動きが早くなった。
あれから1週間。
勇気はいったい今頃何をしに来たんだろう。
俺たちはその後、蛾がいっぱいたかっているライトの下で見つめ合った。
勇気は何もなかったかのように微笑み、俺の両手を握り締めてくれた。
彼はあの日と同じ赤いTシャツを着て、あの日と同じブルージーンズを履いていた。そしてあの日と同じように、耳には銀色のピアスが光っていた。でも、彼の目の色だけは茶色に変化していた。 俺はちょっとつり上がった彼の目をじっと見つめ、コンタクトレンズを買い換えたんだな……と、一瞬脳天気な事を考えていた。
「貴ちゃん、バイト終わったんでしょう? これから遊ぼうよ」
彼は上目遣いに俺を見上げ、本当に何もなかったかのようにそう言った。だけど俺は、何もなかったような顔なんかできなかった。
それでも彼はあくまで陽気で、黙りこくる俺に向かってふざけた調子で言葉を続けた。
「あ、もしかしてずっと電話しなかったから怒ってるの? 僕、試験があってちょっと忙しかったんだ。本当にそれだけだよ。絶対浮気なんかしてないからね」
彼の金色の髪を淡い黄色のライトが照らし、上を向いて立ち上がっている髪の毛1本1本がキラキラと輝いて見えた。
その髪に触れたいと、俺は強くそう思った。
もう彼を忘れようとしていたのに、もう半分は忘れかけていたのに、懐かしい彼の声を聞くと涙腺が緩んだ。
俺は彼の手を振りほどき、零れ落ちそうになる涙を手で拭った。 でも次から次へととめどなく涙がこみ上げてきて、そのうち鼻水もたれてきて、もうどうしようもなくかっこ悪くて最悪だった。
「貴ちゃん、どうしたの? 泣かないで」
心配そうに俺を見上げる彼の顔が涙でにじむ。ツンツン立ち上がっている金色の髪が涙で歪む。
「もう泣かないで」
彼に抱きしめられると、ますます涙が溢れてきた。自分の情けなさと彼の優しさに、気が狂いそうだった。
「慰めてあげるから、今夜は僕の部屋へ来て。僕が浮気してない事をちゃんと自分の手でたしかめて」
彼が耳元でそんな事を言った。でも俺はかたくなに首を振り続けた。本当はあの日だって、こうするべきだった。
「どうして? 僕の事が嫌いになったの?」
とうとう勇気まで泣きそうな声を出すようになった。
嫌いになんかなるわけがない。本当は会えなくなった後もどんどん勇気の事を好きになっていった。 でもだからこそ、好きだからこそできない事だってあるんだ。
勇気には、かっこいい所しか見せたくなかった。彼の前ではいつもかっこいい男でいたかった。
時々拗ねて泣いてしまうのはいつも勇気の方で、俺はいつもそんな彼を慰める役目でいたかった。
本当は蛾がたかっているライトの下で、みっともない泣き顔を見せたくなんかなかった。
「俺、行かないよ。また迷惑かけるし……」
「貴ちゃんは迷惑なんかかけてないよ」
やっと搾り出した俺の言葉を遮って、勇気がそう言った。 そして彼はまだ言葉を続けようとした俺の唇に柔らかい唇を押し付けてその声にフタをした。
あんな事になって彼の事はもう諦めなくちゃいけないと思っていたのに、熱いキスを交わすとどうしても彼を離したくないと思ってしまう。
長いキスの後、まだ涙を止められない俺の額に彼の額が押し当てられた。 彼は茶色の目で俺をじっと見つめ、すごく優しい声で俺を励ましてくれた。
「何も心配しなくていいから、僕の所へ来て。明日の朝まで……一緒にいて」
俺はその時、どうして首を振る事ができなかったんだろう。
それはきっと、勇気が好きだからだ。俺は彼の事がすごく好きだから、どうしても嫌とは言えなかった。